英語は訓練で身につく

 英語を学ぶということは机に向かって勉強することだけではありません。そういう勉強は大切であり前提ですが、それで終わるものではないということです。勉強は理論を理解し、知識を整理するものであり、その次のステップとしての「訓練・練習」を欠かして実技は身につきません。そして「英語が身につかない」と嘆く多くの人はその訓練をしていないのです。

 誤解していただきたくないのは「勉強するな」といっているのではないということです。学習なしでいきなり訓練だけするのは、決して効果的ではありません。英語の音声を聞き流すだけで文法は理解できるようにはなりません。

baby  そういうと「赤ん坊は文法など学ばなくても言葉を身につけている」という反論もあるでしょう。赤ん坊が「本当の白紙」の状態から母国語を習得するプロセスとまったく同じことをさせてもらえるのであれば、その主張もまんざら間違ってはいません。つまり、2年から3年ほどの年月をまったく周囲の人々の会話も理解せず、「うーうー」とか「あーあー」という言葉だけで日常生活を送れて、毎日浴びるほどその言語の音声に耳を傾け、耳からの聞こえのまま、まさに 「赤ちゃんのように」それを真似て、親の表情や仕草などの情報を通じて徐々に「音に伴う意味」を把握し、本来の発音とかけはなれた「赤ちゃん言葉」をかわいいと思ってもらえ、たくさんの無意味な音の発声が徐々に言葉としての体裁を整えるまでの数年間を周囲が許してくれるなら、そのようにして1つの言語を身につけることは可能です。ただし他に一切の言語を知らず(あるいは完全に忘却して)、身の回りの世話もすべて誰かがやってくれるとすればです。

 私自身、本稿を執筆している現在、3歳の長男と4ヶ月の次男がいます。現在3歳になる長男が赤ん坊のときから、どのようにして言語を身につけていくのかというプロセスを興味深く見守り続けてきました。彼は日本人の父とフィリピン人の母の間に生まれ、フィリピンの地に置いてタガログ語と英語の混じったような言葉を使うほか、わずかな日本語を理解します。目の前でマルチリンガルの人格が成長していく過程を観察できる機会に恵まれつつ、発音の上達や文法的な言葉をどういう順序で発現してくるのかを興味津々で見つめてきました。これまで高校での英語教員という立場で、一定の年齢に達したあとの外国語習得についてはその指導法も学んできましたが、第1言語の習得プロセスの観察がきっと大きなヒントを与えてくれると考えてきました。そして実際に実に多くの示唆を与えてくれました。

 言語学で「普遍文法(UniversalGrammar)理論」というものがあり、理論的に文法を学ばなくても赤ん坊や小さな子供が自然と語順や構文を身につけていくことを踏まえて、人間が本来、生まれながらにして普遍的な言語機能を備えていることが説かれていますが、これは「人間であれば、もともと『言語的な性質・才能』を脳の内部に秘めており、外部からの言語刺激の繰り返しにより自然と自分が所属するコミュニティの言語を身につけていくものである」ことを示しています。

 言語習得の初期段階にある子供は、人が教えなくても、文法書ならかなり高度な解説事項に含まれるような語順を自然と身につけていたりもしますので普遍文法で説かれている「言語的な性質・才能」を確かに人間は生まれつき持ち備えているようです。

 もちろん、日本語をすでに母語として身につけたあと、一定の年齢に達してから新たに外国語としての英語を習得しようとする場合、赤ん坊が言葉を覚えるプロセスとまったく同じものをたどるわけにはいきません。年齢が高くなるほど、すでに獲得済みである母語の補助を適切に用いながら、新たな言語の理解の補助とします。しかし日本語はあくまでも英語学習初歩段階の補助であり、自転車に乗り始めの補助輪のようなものです。最後はまったくそれを用いず英語の中だけでものを考え英語を聞き取り話すようになるのです。
 「英語を学ぶ」というのは「英語が使えるようになる」ためであり、実技習得の目標を忘れて「英語を知識的に覚える」のではありません。英語が分かるとは、英語の音声から直接意味を汲み取れることであり、「書かれた英文を和訳できること」なのではないのです。英語が話せるとは日本語をまったく思い浮かべないままに「伝えたいことが直接英語の音声として発せられる」ことであり、頭に思い浮かべた日本語を高速で英訳することではありません

 考えて見れば当然のことです。
 たとえばアメリカ人は相手が口にした英語を和訳していませんし、自分が話すときに先に日本語文を思い浮かべたりもしていませんね。英語の習得というのは、そういう英語ネイティブの言語活動と同じことが自分にもできるようになることを目指すものです。そしてそれは決して難しいものではなく、適切な取り組み方と訓練によって誰にでも例外なく、できるものなのです。他の科目の勉強が不得意だった人でもそういうこととは無関係に英語は習得できます。
 普遍文法で説かれている「人間であれば本来持ち備えている言語的性質と才能」を誰もが例外なく持っているからこそ、今すでに日本語という1つの言語が使える状態にあるのです。だから、同様に英語も上達できるのです。これまで望んだ成果が得られなかったのは、どこか取り組み方が間違っていたり、必要な訓練・練習が欠けていたからなのです。そこを正して基礎から順序よく取り組みなおせば、これまで何年も(何十年も?)苦労して身につかなかった英語が、少なくとも数年の集中的努力で成し遂げられるのです。必ず。


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