やるべきことをやるのが効率的

 人は誰でも怠惰なところがあります。私個人に限らず、誰もが安易に流されやすいものだと思います。学習の「効率」を求めるとき、それが自らの怠慢の言い訳になっていないかをまず確認しましょう。

 本当の効率というのは「やるべきことをすべてやる」ことであり、すなわち「何がやるべきことか」を見極めることです。

pic  しかし多くの人は「何をしなくていいのか」を知ろうとします。この2つは似ているようでまったく違います。

 「やるべきことをすべてやる」ことで効率を求める人は「もしかしたらしなくていいこと」も進んでやります。しなければならないことをもらさないためです。

 「やらなくていいこと」を排除した結果による効率を求める人は「しなければならないこと」にも疑念を持ちます。「するべきか、しなくてよいか」の判断が「できればしたくない」という否定的願望を背景としているため、常に前に進むことをためらいます。

 そういう「後ろ向きの効率」を求める学生は、試験に出題されるかどうかが常に念頭にあり、直接の問題素材とならない発音記号を覚えようとしません。「発音記号を書かされる問題など出ない」から覚える必要を感じません。そして発音問題では、単語のスペルなどから発音の規則性を覚えようとしたり、「読みの例外の単語」だけを暗記して望んだりします。1つ1つの単語を「正しく読める」ようになっておくことの方がはるかに効率的、効果的であり、発音問題以外の成績にも結びついていることに気づきません。

 試験の得点だけが念頭にあると英語の理解が「和訳できる」ことにあると勘違いしがちです。それは「次の英文を和訳せよ」という問題に直接効果がもたらされると誤って思い込んでいるからです。

 なぜ「英語が話せる」ことを目指さないのでしょうか。英語が話せて聞き取れる人であれば、試験の長文問題でも日ごろの趣味の読書のようにすらすらと読みこなせ、あとは必要に応じて「日本語に頭のチャンネルを切りかえて言い直してみる」だけで、自然で正確な和訳がいつでもできます

 それでは英語学習において「やるべきこと」とは何でしょう。

pic  それは「発音」と「文法」と「語彙」です。いまさら言われなくてもこれまでずっと聞かされていたこととまったく同じではありませんか?そうなのです。学校の教科書の勉強とどこも変わることはないのです。実は学校の教科書や参考書、副教材などを「正しく学ぶ」ことによって英語は話せるようにも聞き取れるようにもなるようになっているのです。それを「学校英語は役に立たない」とか「学校で習う英語表現は不自然だ」あるいは「How are you?は死語だ」などと、本来体系的で非常に内容の整った教育プログラムを否定する書籍や教材があるのはなぜでしょう?

 そうすれば売れるからです。学校教材を通じて英語が伸びなかった人が「自らの怠慢」を理由にせず責任を転嫁して楽な気持ちになれるからです。そういう怠慢に迎合してさらなる横道、遠回りにいざなっているというわけです。

 学校の教科書などの内容をしっかりこなした上で「さらにその他の教材」に手を伸ばすことは大いに結構です。学校教材が完全にこなせていなくても、別の教材が気分転換になればそれでも効果はあります。他の教材で学んだことも学校教材のどこかでまた学びますし、学校教材での学習を他の教材が強化してくれたりもします。

 このように「怠慢の合理化」や「逃げ」の姿勢からではなく、現実から目を背けない前向きな姿勢からであれば、書店でちょっと角度の違った視点から書かれた他の英語関連書物を手にするのも知識や理解に幅と奥行きを持たせてくれます。

 要するに最も「効率的な学習」とは「常に前に進み続けること」なのです。「しなければならないこと」を何かもらしてはいないかに注意を払い、特に「実践技能としての英語」を身につけるための努力を絶やさないことに他なりません。「しなくていいこと」を探し始めたとき、すでに効率は大幅に低下していることを忘れないでください。

 そして本サイトでは全章を通して、「やるべきこと」をいかに網羅するかを伝えようと努力します。そしてもっとも重点を置くのは「英語の学び方」を知っていただくことであり、教科書や他の解説書の「読み方」をお伝えするのが目的です。最終的には本解説を離れて、自分の好きな書籍や教材を通じて大いに学んでください。そしてそのとき、「英語の学び方」を知らないままでいたときより、手にする教材の活用度が劇的に向上すると思います。


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