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000.はじめに

 このサイトを開設しようと思ったきっかけはいくつかある。

  1. 以前にも「英文法って大事だと思う」というサイトを持っていたが、日本からフィリピンへ移住することとなり、日本のプロバイダ契約を解除し、そのサイトも閉鎖した。そしてパソコンにバックアップとして保存しておいたデータも、PC不調からシステム再インストールのため失われていた。しかし、サイト復活のご要望をかなり頂戴し、1から仕切りなおしてまた作る必要性を感じるようになった。

  2. Yahoo Japanの「知恵袋」で英語についての質疑を見るようになったが、そこでは定期的に同じ質問が繰り返し現れている。さらにその多くは極めて基本的で、かつ重要なことがらについての質問だ。だが残念なことに知恵袋での回答には800字(でしたっけ?)という極めて限られた字数制限があり、懇切・丁寧な説明がどうしてもできない。そんなとき「参考URL」として、あらかじめ詳しい解説のあるサイトを紹介できればいいのだが、これといって卓越した解説がネット上には見当たらない。どこも「ルールの羅列」であり、「なぜ?」が書かれていない。それは市販の文法書も同じであり、知識は得られても「感性の育成」については、その方針を見出すことができない。基本的なことがらほど、実は重要であり、その後の英語学習の方向性を正しく、実用性のある、かつ、受験などの目標も達成できるように導けるかどうかの分岐点だと感じる。

  3. かつて高等学校の英語科の教壇に立ったこともあったが、現在はフィリピンにて別の仕事をしながら、通訳・翻訳業も行っている。英語とのかかわりは早いもので30年を超えた。30年といえばおぎゃあと生まれた赤ん坊がいい大人になる年月である。アメリカにもイギリスにも行ったことはないのだが、日本にいながらにしても「セミ・ネイティブ的感覚」は十分に育成できると実感している。そして、知識の英語を感覚にまで昇華させるノウハウをなんとか伝えられないものかと常々考えてきた。自分自身の知識を整理する意味もこめ、文法を分かりやすく体系的にまとめようと考えた。

  4. 英語についての悩みの声は、中学生から高校、大学生、さらに現役の英語教員や塾講師などからも寄せられる。またインターネットによる通信教育もしているが、その需要は不思議なくらい現役で英語を教える立場にある人からのものだ。自分自身はわかっているが、初学者にどう伝えればいいのかという角度の悩みも多い。そこで「教え方」も含めて解説できればと考えた。その内容は、学習者の立場から見れば「教わり方」でもある。

 このサイトは基本的に「英文法」の解説を主眼とするが、それは単に「ルールの羅列」を目指すものではない。それ以上に本サイトが目標としているのは、「文法の学び方」を伝えることである。知識を提供するだけであるなら、巷にはあふれるほどの解説書、参考書がでまわっており、加えて1つのテーマだけでも1冊の本になるほど情報量は多い。
 このサイトでは、内容的にはきわめて基本的なことがらに絞ることとはなる。しかし、頻繁に耳にする疑問については、字数を費やして詳細な解説を心がけたい。特に個々の文法事項について「なぜ、そうなるのか」「どうすれば、文法を知識から感覚に高めることができるのか」といった最も重要で、なおかつほとんどの書物には書かれていない内容に重きをおくつもりである。

 今更言うまでもなく英語は日本でもっとも多くの人々に学習されている外国語であるが、それにもかかわらず、その学び方についてはほとんどの学習者が大きな誤解をしていたり、明らかに誤ったアプローチにより学習しており、結果として長い年月を浪費しているように思われる。
 このサイトでは最初に「英語学習全般」という序章が設けられている。序章と呼ぶにはかなり長いものだが、それは上で述べたように「ほとんどの人が誤解している英語学習への取組み方」の是正が緊急課題であると感じるからだ。できるだけ、この序章を飛ばさずにまずは通読願いたい。それによって本サイトを作成した意味をご理解いただけると思うし、その後の本論における解説もより理解しやすくなると思う。



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(1)英語学習全般

001.学校英語は役に立つ!

 学校英語あるいは受験英語というものが、いつまでたっても会話もできない役に立たないものであるかのような批判がある。それは昨日今日はじまったものではなく、私が高校生の頃でもそういう批判はあった。そして、現実に国は、日本の英語教育を考え直そうと、色々な方針を打ち出してきた。それは英語だけについてのことではなく、あらゆる科目全般を含めての教育の見直しでもあった。
 そしてなされたのは、口語表現の導入や、独立した英文法科目の廃止、くわえて「ゆとり教育」という名のもとに授業時間の削減。改悪に次ぐ改悪の連続だった。反面、ちまたでは、英会話学校が盛隆し、塾や予備校が不可欠の存在になりつつある。教育制度をいじくりまわすお役人は、教育現場をまるで知らないのか、なにか勘違いしているとしか思えない策ばかりを打ち出してくる。あんなに「素晴らしかった学校英語教育」がどんどんひ弱な内容に変化している。それを補おうと塾や予備校に生徒が流れているように見える。そして実用英語を目指す人々は、英語教育法についての知識などかけらもない「英語ネイティブ」を看板にした教室に大金をはたく。しかしてそこから大きな成果をあげたという声が不思議なくらい聞こえてこない。

 はたして本当に学校英語、受験英語は役に立たないのか?学校の教科書や参考書からは実用性の高い英語力を得ることはできないのだろうか?いや、そんなことはない。「おはよう」、「こんちには」程度の会話を身につけるのに体系だった文法知識も必要ないだろうが、新聞や書物を読みこなし、それと同じレベルの話題について会話しようとするなら、高度で豊富な語彙も必要となり、そういう知識は学校の教科書や英文解釈の参考書、あるいは文法書の例文から十分に学ぶことができるものだ。
 
 学校教育の現場における最大の問題点は、「授業時間が少ない」ということ。「ゆとり教育」のおかげで、すっかり「ゆとりがなくなった」のだ。昔なら筆記体の練習に数週間を費やし、発音記号の解説と練習にも十分な時間を授業の中で割くことができた。
 考えてもみよう。「同じ到達点を目指す目標」があるとき、多くの時間を使ってよい場合と、少ない時間で同じことをしなければならない場合とでは、どちらに「ゆとり」があると言えるだろうか。言うまでもなく前者である。前者なら、ふもとから頂上までなだらかな勾配を登りつづけることが許されるが、後者では極めて急勾配を余儀なくされる。

 学校英語、受験英語、実用英語などまるで様々な英語があるかのように言われるが、英語は英語であり、1つしかない。互いがそれぞれ相反する存在なのではなく、包含関係を持っている。そして実用英語を包含するのが受験英語なのだ。取組み方1つで、受験英語を通じて極めて高度な実用英語は身につくのである。学校英語を批判する者は、その取り組み方、学び方そのものを間違っている、つまり「自分の責任」なのだが、それを転嫁しているにすぎない。

 しかしそれでも、教える側の責任がまったくないわけでもない。厳しい授業計画のペースに追い立てられながらも、教える側が、「英語の学び方」をきちんと教える努力を怠らずに行ってさえいれば今日のような批判もなかったのではないか。教える側自体が、「知識としてしか英語を学んでこなかった」としたら、それをそのまま押し付ける結果になるのも当然だろう。

 反省すべきことがらは確かに多くある。そして反省すべきはお役所でもあり、教育現場でもあり、教員でもあるが、学習者本人でもあるのだ。



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002.受験英語と実用英語の両立

 すでに述べたように、本来「受験英語」と「実用英語」という区別はない。あるのは「英語を役に立たせる学習法」と「役に立たなくする学習法」だ。「効率的な英語学習法」とか「効率的に英単語を覚える方法」という質問を非常によく聞くが、A地点とB地点の最短コースは「ただ2点を直線的に進む」こと以外にない。「効率的な方法」を捜し求めて、あっちへうろうろ、こっちへうろうろと遠まわりしている人の多いこと。そういう人たちは最初から「学習したくない」だけのことであり、「分かっていなくても答えられる方法」や「知らなくても試験で点数の取れる方法」をもとめている。
 
 Yahoo の知恵袋などでも「和英、英和の翻訳」で苦労している人が多いが、その多くは「機械翻訳」で答えが出ると本気で信じている。質問に対して、機械翻訳のでたらめな結果を丸投げしている人すら珍しくないから驚きだ。自分の頭を使って考えるということが、今の日本人はここまで苦手になっているのかと思わされる。

 世間なみに言われる「受験英語」と「実用英語」は両立するのか?当たり前に両立する。「両立」と言えば語弊があるかも知れない。2者は別々の存在ではなく、(正しく学習された)受験英語の中に実用英語はおのずから含まれてしまうのだ。従って、その方法さえしっかりと認識していれば、迷わず受験英語にまい進すればよいのである。大学受験という目標を達成したとき、実用英語は付録のようについてくる。

 逆も言える。実用英語を常に念頭におき、受験勉強したらどうなる?すなわち学校の教材にあるような英語を「自分で言える」ようになることをめざし、それを実現できたとしたら。それはそれは高度な内容の英文を口にできるようになっているわけであり、そんな能力を身につけた人にとって大学受験など朝飯前だ。

 おわかりだろうか?中学生なら中学校の、高校生なら高校の教材をしっかりやれば、それでいい。「しっかり」とは、そこに書かれている英文を和訳できたらよしではない。自分自身の能力として何が身につくことが、その教材をしっかりやったことになるのかを冷静に考えてみることだ。当たり前のことを当たり前に考える。それによって答えは見えてくる。



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003.正しい学習ベクトルを

 「ベクトル」というのは高校の数学で出てくる言葉だが、簡単に言えば「方向性」のこと。「どこに向かって、どういうふうに進んでいけばいいのか」を自覚することである。英語について言えば、「英語を学習する」とは何をすることなのかを正しく理解・認識して、やるべきことをしっかりやるということ。
 だが現実には、それがわからないから苦労している人が多い。だからこそ、このサイトで「当たり前のこと」を徹底的に語ろうと思う。このサイトには一切の魔法はない。むしろ「まやかしの術」にたぶらかされている学習者の目を覚まし、本当の現実を見る目を開かせるのが目的である。本人が気づかずに「遠回り」している学習者に「直線最短コース」を示すのが目的だ。
 
 英単語を学ぶとき、非常に多くの学習者が「カタカナでどう読むか?」を聞いてくる。本人にとっては、それが「近道」に思えているからだろう。カタカナをふってもらえば、日本人にとっては即座に読み上げることができる。しかしそれは英語ではない。英語話者が聞いても、その単語を読んだとは思わないまったく違う音に置き換えている。だからそのような単語学習をいくら積み重ねても英語が話せるようにはならない。
 英語と日本語はまったくの別言語なので、その言葉に使われる「音」からして違うのだ。だから「今まで出したことのない音」をどうやって出すかを学ぶことからすべては始まる。英語本来の発音を基礎から丁寧に学び、訓練することにより、英文全体の意味を感じ取りながら、スムーズでスピーディに読みこなせるようにもなる。
 カタカナ読みを5年、10年続けても前には進めない。最初めんどうに思えても、発音記号を1つ1つ身につけることが「直線コースを進むこと」になるのだ。

 「英語ができる」とは何を意味するのか?これにさえ正しい答えを出せない学習者が相当多くいると思われる。ある人は「和訳できること」と言うかも知れないし、またある人は「試験で点数を取れること」と答えるだろう。「英語がしゃべれないように」英語を学ぶなんて、これほど「遠回り」な勉強方法はないのだ。「楽しよう」とするなら、「前に進まず、じっとしている」ことだ。あるいは頂上へ向かう上り坂を放棄して、逆方向の下り坂をたどれば、そりゃあ楽ができる。そういう勉強方法を指して「学校英語」と呼ぶから「役に立たない」結果しか得られない。当然じゃあないか。
 英語ができるとは次の4つの能力すべてが身につくことを指す:

  1. 話せる(Speaking)
  2. 書ける(Writing)
  3. 聞き取れる(Listening)
  4. 読み取れる(Reading)

 だから学習者は、どんな教材に向かうときでも、その教材を通じて、これら4つの能力すべてを伸ばそうとしなければならない。「英文解釈」の問題集で和訳をしているときでも、「話す」ための教材としてそれを使う。自らが正しい発音を習得すれば、自分自身の声を聞いている自分の耳も鍛えられ「聞き取り」の力は自然に伸びる。「読んで和訳して終わり」ではなく、和訳から元の英文に戻せる(書く)力まで伸ばすことを忘れない。
 「そこまでしなくても試験で点数は取れる」という人もいるだろう。まあ、そうだ。「試験で落第しない程度の点数」は確かに取れるだろう。そうではなく、満点とってお釣りがくるほどの力をつけて欲しい。「ここまでできたら、これができるのは当たり前」という力をつけるのだ。

 学力には包含関係というものがある。

  1. 自分で発音できる音は聞き取れる。
  2. 自分で言える文章は書ける。
  3. 自分で書ける文章は読み取れる。

 聞き取れる音すべてを発音できるとは限らない。また読み取れる英文を、書けたり口頭で言えるとも限らない。「低い方(含まれる側)」に目標を置いて勉強する人は、「高い方(含む側)」の能力が身につくはずもない。



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004.近道はあるか?

 知恵袋で出た質問に答えた文章があるので、それをまず引用したい:

---引用ここから----

1、英単語を簡単に覚える方法

一定の基礎は必要(すでに知っている単語数や正しく発音記号が読めることなど)。
その上でetymology(語源学)を最大限に活用。接頭辞、接尾辞、語幹の意味を踏まえて単語を知る。
他の単語との有機的なつながりが意識されるので長期間使わない単語、滅多に使わない医学用語なども忘れない。(それを思い出すきっかけがよく使う単語の中にもあるから)

2、英文を簡単に覚える方法

--(1)発音の基礎を固める。正確にスピーディ(早口ではない)、リズミカルに読めることで英文の意味に応じた抑揚や区切りができ、「自分自身の気持ちから発する言葉」として英文が口をつく。

--(2)緻密な文法理解の裏づけを持つ。なぜそれらの単語がその順序でそこにあるのかの理由を納得。根拠があるから覚えられる。文法をルールとしてではなく「英語ネイティブの心理の表れ」として理解する。文法事項を断片的ではなく、整理された状態で把握。知識に体系があるので忘れない。

3、簡単に英語を学ぶ方法

ありません。でも「遠回りで効率悪く学ぶ方法」ならいくらでもあり、多くの人はそれをやっています。だから遠回りでなく効率をわざわざ悪くしない方法が、「簡単な方法」となるでしょう。

4、英語が身に付かない学習法

(1)文法事項を理由も考えずに暗記する。
(2)発音を軽視し、英単語をカタカナ読みする。
(3)和訳ばかりにこだわり、英語を使うことを目標にしない。和訳できることが英語の力だと思う。
(4)辞書を引かない。機械翻訳を使う。すぐ人に聞く。自分で考えない。
(5)英語を実技科目だと思わない。練習しない。訓練しない。すべて知識で済ませる。

---引用ここまで---

 このうち1から2については、追って詳しく述べる。
 ここでは3と4について見てもらいたい。「近道」とは「2点間を直線的に結ぶコース」だとはすでに述べた。英語が苦手だと感じる人は例外なく「無意識の遠回り」をしているのだ。あるいは気持ちが定まらないために、前に進めばいいものをわざわざ右へ行ったり左へ行ったりしているだけのことだ。
 「楽をしよう」とするあまり4の学習法をとり、結果として「大変な苦労」をしている。いいですか?あなたは「山の頂上にたどり着きたい」のですよ。しかし「坂道は登りたくない」というのはそもそも矛盾しているということに気づくべきです。坂道を登らずに頂上へ行くことは「不可能」なのです。この当たり前の現実にまず目をむけること。これが何よりも重要である。



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005.機械翻訳について

 インターネット上には、かなり多くの翻訳サイトがあるようだ。しかし残念ながら、使い物になる機械翻訳は今のところただの1つとして存在しない。実に珍妙な和文、英文が返ってくる。明らかな誤訳、文法的に成立しないでたらめな文章が非常に多い。にもかかわらずそれを「便利だ」とありがたがっている人が多いというのもおかしい。おそらく機械翻訳を便利がっている人は、結果として出てくる「でたらめ」を自分で検証などまったくしていないのだろう。まあ、英語が全くわからない人にとってみれば、日本語を入力したら、とにかく英文が出てくるだけで驚きなのかも知れず、機械翻訳が返してくる英文を文法的に確認したり、そこに使われている単語がもとの日本語の意味に即したものかどうかをチェックするような手間さえかけていないと思われる。それができる人なら、機械翻訳がいかに役立たずであるかを最初の1回使っただけで痛感してしまうわけで、また、自力で辞書を使って翻訳した方がはるかに意味の通った訳文が得られると思うことだろう。

 機械翻訳では、なぜあそこまで珍妙な訳文が返ってくるのか。英和をさせてみた結果表示される日本語の文章など、とても正常な日本人が口にするものではない。日本語ネイティブがひと目みれば、そのあまりの滑稽さに大笑いするほどのでたらめさで、まるで日本語になっていない。退屈しのぎに機械翻訳で何か適当な英文を和訳させてみて、人間には思いつかないような滑稽な文章を娯楽として楽しむという用途はあるかも知れない。

 そこまで使い物にならない機械翻訳だが、これは開発者自身も自覚している。あくまでも開発途上なのだ。この先、研究・開発が進めば、もっとましな訳文を返せるようにはなってくることだろう。だが、私が想像するに、人間による翻訳を超える機械翻訳は永遠に登場しないだろう。翻訳家が失業する心配はこの先もなさそうだ。
 機械は何も考えていない。想像ということをしない。機械翻訳の内部では、あらかじめ辞書として登録されている単語やフレーズをまさに機械的におきかえて、つなぎあわせて出してくるだけだ。日本語のように主語の省略が当たり前に行われる言語については、文脈をさかのぼって主語を補わなければならなかったりすることが多いが、それはプログラムが進化すれば、多少はできるようになる。しかし、1つの英単語には文脈に応じて、様々な訳語があてはまり、その中のどれを訳文に用いるべきかという判断(文脈解析)は、非常に複雑なプロセスを必要とするため、インターネット上で無料で公開されているようなチープなプログラムにそれを期待することはまずできない。どの機械翻訳も基本的に英単語1つにつき、訳語1つを対応させているだけなので、多義語の判断を適切にすることは期待できない。
 機械翻訳でも、単語の前後ある程度の範囲内を辞書と照らし合わせて訳語を決定しているが、そのプログラムは人間の思考には遥か及ばないものだ。

 実をいうと、私自身、機械翻訳には興味がないわけではない。かつて言語起源論というものを研究していた時期もあり、人間の言語の解析により、自動化できる可能性はそれなりに感じている。しかし人間みずからが、人間の思考を完全に解明できているわけではなく、まだまだ多くの研究課題が残されている。



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006.ローマ字について

 日本人が英語の文字に触れる最初といえば、ほとんどの場合、小学校で習うローマ字ではないだろうか。これは英語のアルファベットになじむ意味では価値のあるものだと思う。また英文の中に日本の人名や地名を織り交ぜて書くとき、どういうスペルで書けばいいのかは、ローマ字の知識がなければわからない。
 ローマ字には「正書法」という「定めされたルール」がある。これは人為的なルールである。だからそれに従わず勝手なローマ字を編み出すことは許されない。あらかじめ決められたローマ字の書き方に従って日本語の文字を英語のアルファベットにより表記することとなる。
 しかし、ローマ字で書けば、どんな日本語でも正しく英語話者が発音してくれるかというと、そういうわけにもいかない。それは英語をカタカナで書けないのと同じで、日本語の発音も英語のアルファベットでは書き表せないのだ。だからローマ字とは、日本語の文字が全く読めない外国人が、「日本語の発音の『近似値的』な音を出す」ための参考に過ぎないと考えるのがよいだろう。

 オンライン百科事典のWikipedia(日本語版)にはローマ字について詳細な解説がある。

 そのすべてを知っている必要はないが、大雑把に次のことだけは理解しておこう。

  1. ローマ字には大きくわけて「訓令式」「ヘボン式」がある。訓令式とは、小学校で最初に習うローマ字のシステムで、極めて規則的に子音・母音の文字の組み合わせが用いられている。しかし「si, ti」などつづりのまま英語的に発音しても日本語の音と大きくかけ離れている例もあり、それを考慮して作られたのがヘボン式である。ヘボン式は多くの外国人にとって、日本語の予備知識がまったくなくても、それなりに日本語に近い読み方ができるように工夫されている。

  2. 訓令式は、どちらかというと「日本語を学ぶ外国人」のためのものであり、アルファベットがそのまま日本語の発音に対応していないことをちゃんと認識しながら、やがては本格的に仮名に置き換えるようになることが前提とされている。また訓令式ローマ字は極めて規則的な表記方法になっていることから、日本語の動詞活用など文法を理解する手助けとするのに非常に都合がよい。

  3. ヘボン式は外国人旅行者など、日本語についての予備知識なしで、駅名、地名、人名などの読み方を「英語的」に読むにはある程度都合がよい。しかし、英単語的に読めば、sake(酒)が「セイク」と発音されてしまうように、誤読は避けられない。そういう問題に対応するため、ヘボン式にさらに手を加えた「道路標識ヘボン式ローマ字」や「駅名票ヘボン式ローマ字」というものもある。

  4. 日本人は案外、ローマ字を知らない。それは当然ともいえ、普段は漢字と仮名によって日本語を表記するのが自然な姿であり、それが日本語の言語習慣である。小学校の頃に習った細かいローマ字の正書法についての規則などほとんどの人が忘れてしまっていて当然だと思う。
     加えて、パソコンのワープロソフトなどにおける「ローマ字入力」と「(正書法)ローマ字」を混同している日本人が実に多い。「ローマ字入力をするとき、どういうスペルをタイピングするか」が、そのままローマ字でなのではないので要注意。

     たとえば「ん」を単独でローマ字入力しようとすれば「nn」と2回nのキーを打つことになるし、「東京」は「toukyou」とタイプする。しかし正書法ローマ字では、訓令式、ヘボン式いずれにおいても、東京は「Tokyo」である。(訓令式では、Tokyo」の「o」の上に山形の長音記号をつける)  英文にまぜて日本の地名や人名などを書くときは常に「ヘボン式」を用いる。日本語の単語の「発音だけ」を英語のアルファベットによって伝えたいなら、ローマ字にこだわらず、英単語の一部として説明したり、英語話者が思わずそう読みたくなるような独自のスペルを使うこともかまわない。ただしそのような場合は、あくまでも「日本語として発音した場合の近似値の説明である」ということを明確にする必要がある。



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007.英語ネイティブと留学について

 英語というのは現実問題として、国際語としての役割が実に大きい。そして英語を母語として使っている人だけでなく、第2公用語として公式に認定している国(例:私が住んでいるフィリピンがそう)などもあり、徐々に「無国籍言語」となりつつあるように思われる。
 すなわち「アメリカとイギリスだけが英語国ではない」というのがすでに現実となっているのだ。そして英語を学ぶ目的にしても、アメリカ人やイギリス人だけを相手に会話するのではなく、様々な国の人と、「様々な種類の英語」を相手にすることとなる。
 英語ネイティブと一口に言うが、その人がどの国の、どの地方の出身で、どんな教育レベルにあるかなどによって、事情は大きく違ってくる。どこの出身でどんな教育をうけていようがいまいが、英語ネイティブなのだから正しい英語を話し、正しい英語を教えてくれるとは決して考えてはならない。むしろその逆の事実を非常に多く目にしてきた。
 日本人に日本語に関する質問をしたら、誰もが的確で正しい回答をできるだろうか?特に文法について理路整然と説明できる日本人などかなり限られているのではないだろうか。さらに日本人だからといって語法的に正しい言葉づかいをしているとも限らない。その言語のネイティブにとって、読んだり聞いたりした言葉が「その人にとって自然」かどうかは感覚的に判断できる。だが同じ言語のネイティブ同士でさえ、意見が分かれることも珍しくない。

 知恵袋などでも「英語ネイティブです」と前置きして回答してくる人がちらほらいるが、なぜか具体的な出身国や地方名、さらに文化的背景を言わない人が多い。「その人にとっての正解」だけが正解ではないかも知れず、さらにはその人が正解を必ずしも言えるとは限らないのだ。にもかかわらず日本人は「ネイティブ」という言葉に弱く「英語ネイティブの言うことだから(無条件に)正しい」と思い込んでしまう。先に述べたとおり「日本人に聞けば日本語のことはなんでもわかるというわけではない」ことを裏返してなぜ考えないのだろうか。たとえ本当の英語ネイティブの言葉だとしても、あくまでも「1個人の意見」に過ぎないということを念頭に置いて耳を傾けるべきだと思う。

 英語を習う相手として、理想と言えるのは次のような人ではないだろうか:

  1. 英語と日本語の完全なバイリンガル。
  2. 自らの母国語としての英語だけでなく、多くの国の英語事情に通じている。
  3. 英語、日本語の両方について、単なる感覚だけでなく、正しく豊富な知識を持っている。
  4. 外国語教育について専門的な研究をし、訓練を受けている。

 これだけの条件を満たせる「英語ネイティブ」はそう簡単には見つからないことだろう。ちまたにあふれている「英語ネイティブによる英語教育」をうたい文句にする英会話学校のなかに、はたしてどれほど上記の条件を満たす人物を置いている学校があるかは正直言って疑問である。

 私はたまたまフィリピンという土地において、現地の人に日本語を教える機会を持つことがある。それを通じて痛感するのは、いかに自分自身が日本語を知らない、わかっていないかということだ。インターネットには「日本語を学ぶ外国人」が集うサイトもあり、そういうサイトで見かける日本語についての質問には、日本人より、長く日本語を学んでいた外国人の方が上手で的確で正しい回答をつけてくる例も多い。そういう質疑を見て、私自身が日本語を学ばされることも本当に多くある。

 英語を学ぶ上で、英語ネイティブの存在が身近にあることは非常に恵まれているとはいえる。英語圏に実際に滞在できれば環境としては非常に望ましいのだが、だからといって、英語圏に留学しなければ英語が上達しないわけではない。また英語圏に1年いても、さらに5年、10年と暮らしていても、その人の学習姿勢によっては、日本国内にいるのと大差ない成果しか収められない。英語圏に行けば自然と英語が身につくなどいうことは決してないのだ。そこを安易に考え留学に飛びつくと、単なる時間と金銭の浪費に終わる。留学はしないよりはするに越したことはない。ただし、それなりの時間と大金を費やすに見合う成果を収めるには、「事前の準備」が極めて重要となる。これは日本国内で英会話学校に通うときと全く同じとも言える。

 まったく異なる2人の英語学習者が英語ネイティブと接したとしよう。二人ともこれまでに英語ネイティブとの接点はなく、1人はほとんど初学者で、もう1人は独学で文法や語彙、発音などを基礎からかなりみっちりと学んできた人としよう。
 そのふたりが同じように英語ネイティブと会話する機会に恵まれたとする。

 初学者にとって、英語ネイティブの言葉はまずほとんどわからない。自分が間違った表現を使い、それを想像を働かせて相手が理解し、正しい言い回しにかえて返答してきたとしても、それにすら気づくことがない。英語ネイティブの発音もあまり耳に入ってこないので、簡単な英文も聞き取るのに苦労する。特に日ごろ日本語的発音とリズムで覚えている文章などは、そのまま言われたとしてもそうと気づきにくい。つまり英語ネイティブとの接触によって何か劇的な進歩が遂げられることはほとんど期待できない。
 一方、基礎をしっかりと固めてきた学習者は、実際の英語ネイティブの発音から「ああ、そこはそう読むのか」と気づく箇所も多いし、自分の不自然な言い回しを別の言い回しで返されたときも、「ああ、そう言えばいいのか」と印象に残り、次からは自分もそれを参考にできるようになる。今の自分の学力で消化できる部分とまだついていけない部分の線引きが見えてくるので、現在の自分が持っている英語の技能が明確に見えてくる。会話の中で新しい単語も吸収できる。

 同じだけの時間を英語ネイティブとすごしても、事前の準備ができている学習者はそれをより価値的なものとすることができ、基礎のない学習者は、戸惑いと照れ笑いに終始するかも知れない。もちろん、それでも英語学習に向けての動機づけとなれば、それは価値といえるが、これが同じ英会話学校での1時間だとすれば、同じ授業料を払って「持ち帰るもの」には大きな違いがあるということになる。留学にしてもまったく同様。いや留学については、時間も金銭も町の英会話学校とは比較にならないものを費やすのだから、1日1日の過ごし方、価値の引き出し方の違いが累積すれば、途方もない差となってしまうことだろう。

 なお、留学や英会話学校から得るものは、直接的な語学力だけではない。異文化との接触による新鮮な刺激もあるし、現地に行ったものにしか実感できない空気や匂いというものがある。それが単なる観光旅行の延長のようなものだったとしても、経験したものにしか実感できない満足感がある。言葉が通じない不便さすらもまた異なった文化との直接的な肌のふれあいである。その人の感性が鋭く、観察力があり、心のアンテナが高ければ、大きな収穫を得られることだろう。そのためには文化的な柔軟性と謙虚さ、同時に積極性や冒険心も必要だ。




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008.日本で実用英語を習得する

 英会話学校に通ったり、英語圏に長期滞在できればよいのだが、時間や金銭の問題もあり、誰もが簡単にそれを実現できるわけでもない。多くの英語学習者は、日本の中で英語の勉強をし、それでもときには英語話者との接点を得て、あるいは将来に備えて、日ごろの学習を活用したいと考えていることだろう。
 今の日本は、こと英語について言えば、教材にあふれており、その気になればアメリカなどに長期滞在するのとあまり変わらない環境され作れてしまう。そして、私が思うに、下手に外国に行ってしまうよりも参考としやすい書籍類は日本国内にいた方が入手しやすいということだ。日本にいるからこそ「英語を学ぶ日本人のため」の教材が豊富にあるわけで、これが私のようにフィリピンで暮らすものにとっては、大きな書店にいっても、日本の書店のように英和辞典1つ手に入らない。
 将来、留学を希望・予定している人であっても、今日本にいることの「利を活かした」英語の学習を大いにしていただきたいと思う。日本にいるうちだからこそできる英語の勉強というものもあり、それをやっておいた人だけが「英語圏現地でしかできない学習を存分にできる」のである。

 今の時代、日本にいることが英語学習のハンデにはまるでならないと思える。いくらでも英語教材は手に入るし、英語の音声に触れる機会にもことかかない。英語ネイティブと直接会話するチャンスだって、英会話教室にかぎらず日常生活の中にでもいくらでもある。インターネットの普及により、24時間、世界とつながっており、Web Camで互いの顔を見ながら、音声チャットもできる。日本の誰もが無料で「お茶の間留学」を楽しむことができるようになってきたのだ。

 だから日本にいながらにしてでも、いくらでも生の英語に接することはできる。しかし注意して欲しいのは現実に使われているネイティブの英語が必ずしも規範的ではないということ。辞書にもないような省略形を使ったり、タイピングの手間を省くために本来間違いとされるスペルをあえて使う例も多い。基礎のない人がいきなりそういう現実から英語に触れてしまうと、「そういうものなのだ」と思い違えてしまう恐れが大いにある。実際、そういうはきちがえをして極論を述べる日本人を多く見てきた。
 初学者のうちから、間違うことを恐れずにどんどん英語を使うのは非常によいことだ。しかし「これでも通じるのだから」と納得し、より正しく規範的な表現を覚える必要性を感じなくなってしまうと、かえって上達の妨げになる。最悪、きちんと文法を体系的に学ぶ人を馬鹿にするような発言をする傾向さえ生まれてくる。
 だから、英語を使う機会を沢山持ちつつも、それと平行して基礎をしっかり固め、英語ネイティブ以上にきちんとした規範的な英語を使えるようになろう。それが不自然だと思われてもいい。大切なのは正確に自分の意図を伝えきれる正しい英文を話したり書いたりできるようになることだ。それから先、さらに経験をつむなかで、場面に応じてくだけた表現を使ったり、俗語を交えた言い回しも自然に身についてくる。自らの感性が伴わないまま、見かけだけネイティブの真似事をしても、ネイティブ側から見れば滑稽で奇妙なものだ。
 他の日本人から「君の英語はまるで教科書の英文だ」と言われてもいいのだ。それでいいのだから。教科書のような英文を書いたり、話したりできれば立派なことである。英語ネイティブとの会話で、「いかにも暗記した英文をそのまま使っている」と感じられても問題ない。それが正しく自分の意図を伝えるものであれば、背伸びして俗語をちりばめ、非文法的な英語を使うよりはるかに印象はよい。要するに「等身大の英語」を使えばよいのである。




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009.日本人に「英作文」はできるか?

 「文法」というものを人為的ルールの集まりのように誤解している人は「文法に従って単語を組み合わせれば正しい英文になる」と考えがちだ。確かに文法的に正しければ、不自然といえども意味の通じる英文にはなりやすい。しかし、特に初学者のうちは英文を「作り出そう」としてはいけない。そもそも自分の中に築きあげられている「文法体系」自体が未熟で理解も浅いため、それをもとに日本語から英語に変換することには無理が伴う。文法の理解は非常に大切なことだが、それは英文を理解するときに主に役立つといえ、日本語と英語の言語習慣のずれなど、様々な課題すべてを一部の文法知識だけから解決することはできない。「これはペンです」を応用して「私はコーヒーです」という喫茶店の注文を英訳するわけにはいかない。

 最初のうちは、実際に使われている正しい英文をできるだけ沢山覚えることが望ましい。単語を覚えるように、比較的短い英文でよいので、それが使われる場面や前後関係もイメージしながら、文章まるごとを覚えていく。そして自分で何か言う必要があるときは、「すでに覚えている確かな英文」を「借りてきて」使うのだ。「英作文」をもじった言葉として、これを俗に「英借文」と呼ぶ。つまり「日本人的思考から文法だけを頼りに英文を『作る』こと」はできないが、「身元の確かな英文を借りてきて使う」分には安全というわけだ。

 作曲を目指す人も最初は他人の曲の「コピー」をする。多くの曲をコピーする中で様々なフレーズのパターンやテクニックが蓄積され、やがてはその人のオリジナリティに昇華していく。英語の学習もそれに似ており、いきなり最初のうちから「英文を作り出す」ことはまずできない。正しい英文をまず覚え、どういう根拠でその英文がその意味を表しているかをよく理解したら、「単語の取替え」によって表現を膨らませてみる。「This is a pen.」を覚えたら、「a pen」の部分を色々な名詞と交換することで、指し示すものが何であるかを言う表現が豊富になる。さらに「This」を「That」と取り替えれば、手元にあるものから、遠くにあるものも表現でき、複数形の使い方を覚えれば、さらに表現力が増していく。

 英語での表現力を高める練習として、「1つの英文に対して、できるだけ色々な和訳を与えてみる」というのもある。
 「This is a pen.」という英文に対してなら「これはペンです」だけでなく、「これがペンというものです」や「これはいわゆるペンというものです」など、日本人が様々な状況や流れの中で、さらに文章のどの部分に強調の気持ちを込めるかの違いによりもたらされる日本語表現にしてみるのだ。すると「これもあれも、1つの英文で済ませられる」ということに気づく。その際、1つの英文の読み方が「言いたいこと」によってアクセントの位置や切れ目、イントネーションなどが微妙に違うことも理解できてくるだろう。すなわち「自分の言葉としての英語」が身についてくる。

 英語を習得する上で大切なのは「逐語訳(単語から単語への置き換えによる翻訳)」ではなく、「同じ場面、状況に立たされたとき、思わず口をつく言葉」を対応させることだ。言うなれば「場面を翻訳する」ことである。それは直訳にこだわってはならず、言語習慣の違いを踏まえて、まったく違う言葉に置き換えるべきことも珍しくない。

 プレゼントを贈るときの「つまらないものですが」、なにか仕事を頼んだあとでの「よろしくお願いします」、食事の前後の「いただきます」や「ごちそうさま」を英語にしようとすれば誰でも悩むところだ。それは「つまらない」にあたる英単語は何か?などと逐語訳的に英語を求めるからそうなる。
 相手にプレゼントを贈るとき、英語文化の人々なら「I hope you like it.(気にいってもらえるといいだけど)」とか「I am sure you will like it.(きっと気に入ってくれると思う)」などと積極的な表現を使う。「つまらないものですが」という謙譲の美徳を重んじる日本語文化とは、考え方が違うので、そのままの表現を英語に置き換えても通じなかったり、意図が不明になってしまうことがある。
 「よろしくお願いします」もそうだ。この言葉も「英語でなんといいますか?」の質問によく現れるのだが、英語の中にこれに相当する表現はない。だから「仕事を依頼したあとで一言」と考え、さてそのとき英語話者ならどんな言葉を言うだろうか?と「同じ場面で文化を置き換える」。すると「Thank you.」だって、ときには「よろしくお願いします」の意味に相当することがわかってくる。
 食事の前後に「いただきます」や「ごちそうさま」を言う習慣も英語文化にはない。何かひとこと言わないと落ち着かないのが日本人かも知れないが、だったら「Oh, it looks so delicious.(わあ、とてもおいしそう)」とでも言ってから食事に手をつけ、食事が終わったら「It was really nice.(本当においしかったです)」や「You are really a good cook.(あなたって本当に料理が上手ですね)」などの「挨拶」を用いればよいだろう。
 逆の立場で考えてみよう。日本語を学ぶ外国人に「いただきます」と「ごちそうさまでした」とはどういう意味か?と聞かれたら、どう答えればよいだろうか。まさか「いただきます=私はこれから食べ始めます」と考えて、それを「I am going to eat from now.」などと教えたところでピンとこないだろう。その外国人が日本語の語彙や文法をかなりのレベルで理解できる人であれば、そういう直訳を教えて「日本では、食事の前後にこういう意味の言葉を言うのが習慣なんですよ」ということになるだろう。

 「ありがとうございます」という日本語を誰もが疑問を持たずに「Thank you.」と置き換えているが、これなど「場面の置き換え」の最たる例である。「ありがとうございます」は「有難いことでございます」であり、「有難い」とは「有ることが難しい=滅多にない」の意味。相手の行為が「滅多に見かけることができないほど貴重なものであり、だから私はそれに対して感謝の気持ちを表します」というのが「ありがとうございます」の意味だ。それを語義のまま直訳して「That's very rare.(それは珍しい)」といっても英語文化の中では感謝の気持ちは伝わらない。
 日本人なら「滅多にないほど貴重な行為に感謝します」というのを英語では「私はあなたに感謝する=(I) thank you.」とそのまま言うのである。

 このように「文法に従って単語を組み合わせる」だけでは「場面に応じた自然な英文」が得られるとは限らず、時には「場面そのものを翻訳する(別の言語文化で考えなおす)」ということが必要になる。だからこそ、最初のうちほど「作文」しようとせず、「借文」をするのがよい。




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010.洋楽の活用

 日本にも地方によって多くの方言があり、普段の会話では当然、その人の「お国訛り」が強く出る。しかし、不思議なことに「歌をうたう」ときは、誰も訛らない。歌というのは、非常に自然で標準的な発音を身につけるのに大いに役立つ。
 英語でもそれは同じであり、音楽の好きな方なら、どんどん多くの洋楽を暗唱して歌えるようになって欲しい。複雑な音声学の知識などなくても、同じメロディに合わせて歌うことで、英語の音声学的な細かい現象を無意識のうちに実践することとなる。
 英文を暗唱しようとすれば、短いものでも苦労するが、歌なら何十行に渡る長い歌詞も、苦痛なく暗唱できるだろう。歌詞の意味も調べて、内容にも興味を持てば単語の力もつく。ある曲で覚えた単語がどこか別の英文に現れたときは「ああ、あの歌に出てた単語だ」と印象も強い。

 歌だけで英語が上達するとは言わないが、非常に有益であることは確かだ。
 ただし、歌のジャンルによっては、俗語が多く、日本人が英会話でそのまま使うには適さないものもあるので、学習目的ということであればしかるべき選曲はした方がいいだろう。
 昔から英語学習者にお勧めの定番とされているアーティストとしては、カーペンターズ(録音がクリアで参考にしやすい)、ビリージョエル(歌詞の内容が多岐に渡り語彙や表現の勉強になる)、ビートルズ(俗語的表現の多い曲もあるが、発音は明確)などがあげられるが、他にも沢山あると思う。ロック(特にヘビメタ)は英語ネイティブが聴いても歌詞を聞き取れないものが多いので英語学習向けとしては今ひとつお勧めできるものが少ない。しかし、クイーンなどは適切な曲も多くあるように思う。

 歌詞を素材に翻訳の練習をするのも面白い。かなり高度な課題となるが、歌の持ち味を残した和訳を工夫したり、同じメロディで歌えるように語数を調整したりするのも楽しいだろう。(しかし難しい)




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011.洋画の活用

 音楽と同様に英語学習に大いに役立つのが「映画」である。最近では、「英語字幕、日本語字幕」の切り替えまでできるDVDが出回っているので、学習環境としては実に恵まれた状況になってきている。映画は、聞き取り、口語表現、語彙、文法、翻訳テクニックの学習など、取り組み方によってはあらゆる勉強になる。

 私が大学生だったころは、DVDはおろかレンタルビデオさえまだなかった時代だったので、高い入場料を払って映画館で見るほかなかった。だから土曜日のオールナイト興行にでかけ、同じ映画を少なくとも3回は見て英語の勉強をしたものだ。その当時、私は次のように映画を使って英語の学習をした。

  1. 最初はごく普通に「映画を楽しむ」スタンスで見る。日本語字幕も読み、ストーリーを細かく頭に入れる。

  2. 2回目は、字幕から意識的に目をそらし、画面だけに集中する。とくに登場人物の口元などを注意して見ながら、発音に集中する。すでにストーリーが分かっているので、いつどこで誰がどんな台詞を言うかが、記憶にあるため、意外と聞き取れる。直接、英語でなんと言っているかに耳を傾けていると、1回目に見たときの字幕表現と、かなり違うことを言っていることがあることにも気づく。

  3. 3回目は、メモを用意して見る。映画の中で使われている「お、これは使えるぞ」という表現をメモったり、字幕翻訳の上手な箇所を控えたりしながら、できるだけ多くの「おみやげ」を持ち帰るようにする。

 今はビデオ、DVDのおかげで自宅にいながら、3回といわず何度でも繰り返して見ることができるし、一時停止させて、ゆっくりとメモを取る余裕もあるわけで、学習者の工夫次第で映画を素晴らしい教材にすることができると思う。
 1本の映画をしゃぶりつくすつもりで徹底的に学ぶことができれば、中途半端な気持ちで留学するよりもはるかに効果的となるだろう。できることなら、その映画のシナリオを入手し、誰か1人の登場人物の台詞を丸ごと覚えてしまうなんていうのも素晴らしい。自らが映画俳優(のつもり)になり、1つの作品のシナリオを暗記できれば、そのまま会話で使える表現も沢山身につくし、発音も映画のお手本があるわけだから、聞き取りとともに飛躍的に向上することだろう。

 さらに字幕翻訳と原文を丁寧につきあわせて見ることで、プロの翻訳家の細かいテクニックを沢山盗み取ることができる。映画の字幕というのは、書籍翻訳などとはまた違い、「限られたスペース」に「画面のタイミング」と合わせるようにしながら翻訳を表示する必要があり、なおかつ映画の雰囲気にあわせた自然な日本語を用いなければならないため、非常に高度な技術が要求される。だから丁寧に分析・観察してみると、非常に勉強になることが多いのだ。

 映画の英語は、単なる書物としての英会話表現集とは違い、映画という完全なストーリーの中ではっきりした文脈があり、そこで使われている英文には、場面にあった音声と表情までがついている。つまり「現実の生活の中で実際に使う」ための最高のお手本を俳優が示してくれているのである。限りなく何度でも繰り返し再生でき、納得いくまで俳優たちは、あなたの英語学習の相手をしてくれる。考えてみれば、これほど単価のいい割安な英会話教室もないだろう。是非とも大いに活用して欲しいと思う。

 映画の活用については、次のような疑問の声を聞くことがある。 「同じ映画を徹底的に繰り返し見た方がいいのか。それとも多くの映画で学んだ方がいいのか?」  どちらでもいい。大切なのは英語学習が長続きすることだ。その人の好みや個性によって、「同じ映画を繰り返し」見る方がやりやすいと思う人もいれば、どうしても数回で飽きてしまうという人もいるだろう。
 目安として言うなら、1つの映画を上で述べたような要領で3~5回は見て欲しい。(もちろん単に見るだけでなく教材として勉強する)あとは、多くの作品に触れるなかで「他の映画で覚えた表現がまた使われている」などにも気づくことがあり、記憶を強化してくれる。
 外国語の上達は「言語体験」の豊富さが重要だ。映画というのは、その体験をどっさりと与えてくれる。それも無理なく自分の学習ペースに合わせて進められる。1本の映画を完全にものにしなくても、気軽に新しい映画に移っていいと思う。英語圏で暮らしていれば、そうやって生活は進んでいくのだから、映画の活用にしても、1本にこだわりすぎる必要もない。また、しばらく時間がたってから、また同じ映画を見直してもいい。久しぶりに見ると、また以前とは違った発見があったり、その後の自分の上達を実感できたりもするだろう。




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012.文法とは?

 まず最初に英文法とはいったい何なのかを考えてみたい。
 一見いまさら定義する必要もないように見えるこの言葉であるが、どうも人によってその捉え方には大きなばらつきがあり、「英文法とは何か?」という考え方の違いがそもそも語学の習得に対する致命的なまでのスタンス(構え)やアプローチ(取組み方)の差となっているように見受けられるのである。そして文法というものをどう捉えているかの基本姿勢が、語学学習全体について正しいアプローチができるかどうかを分ける重要なポイントとなっていると思われるのである。

 「文法」という漢字2文字を見ると「文の法則」と読める。そして意外に多くの人たちが、まるで英語には「人為的に定められた規則があり、その規則に応じて英語話者が文章を作り出している」かのように考えているようだ。これは違う。英語にルールブックなどというものは、はなから存在しない。それは英語に限らずどの言語であっても、「まずルールありき」ではないのだ。

 かつて文法論議の中で、ある自称大学教員という方が「英語はルールに従って読み書き話されている。文法という言葉だって『文の法』と書くではないか」と述べたのだが、英語ではgrammarであり、この単語は語源的に「書き言葉」を意味していたものの、どこにも「rule, law」に相当する意味は含んでいない。勝手に「和訳」された文法という漢字をもとに「文法」を定義されてはかなわない。

 しかし1つの言語を共有する人々が互いに意思の疎通が図れているということは、「言葉の使い方に共通性がある」からに他ならない。1つの単語について人々が点々ばらばらの意味を感じていたら、これは会話1つさえ通じなくなってしまう。だから同じ言語文化を共有する人々の間では、確かに言葉を使う上で共通の申し合わせのようなものがあり、互いにそれにしたがって言葉を使っているからこそ、コミュニケーションが成り立つのだと言える。

 しかしそれでも言葉のルールは人為的なものではなく、誰から押し付けられたものでもない。同じ文化を共有する人々が自由に言葉を発している中で、長い歴史を通じて、なかば自然発生的に「言葉づかいの傾向性」というものが生まれてきたというのが実際のところだと私は考えている。つまり言語は、その背景となる文化によって大きく規制させるところがある。その文化の中で必要とされる語彙が生まれ、必要とされない語彙は消えていく。季節変化のない国に暮らす人々に「春夏秋冬」という言葉は必要ないし、雪国に暮らす人にとっては、「雪」を表す表現は多くなる。インドなどでは宗教的に神聖なものとみなされる「牛」について「立っている牛、寝ている牛、妊娠している牛」などを個別に表す単語があるといい、牛関連の語彙だけで300に上るとか。日本なら乳牛や肉牛という言葉があった方が何かと便利だろう。

 このように言葉は文化を背景として構築される。だからある文化の中で培われる「ものの考え方・感じ方」がその言語の構造や文法にも現れてくる。すなわち文化がまずあり、その文化の中における人の心理が言葉になって現れると言えるのである。ということは、言葉を通じて、それを使う人々の心理が観察されるということだ。

 このサイトでは英文法を解説するが、決して「ルールの押し付け」を行わない。常に「なぜそういう文法事項があるのか」を考え続けていきたい。そして英語学習者は、文法の学び方そのものを学んでいただきたい。私自身、文法学者ではないし、それを目指したこともない。だからこのサイトに現れる文法用語は、実用性のある英語技能を伸ばす上で必要不可欠と私なりに感じるものに絞りたい。いたずらに文法用語を振り回し「わかったつもり」になることは避けたいのだ。

 文法用語というのは、「頭の中に知識の整理ダンスを作る」ために必要なものだ。人間は言葉によって考えるため、ある種の用語は使いこなせたほうがなにかと話が早いし、理解も簡単になる。だが、文法用語自体にこだわりすぎる必要もない。用語は自分が分かりやすいように言葉を変えてしまっても別にかまわないし、用語をつかわず噛み砕いた言い回しのままでも大いに結構である。

 ただし私なりに「是非、覚えておいて欲しい用語」として提供するものについては、それなりの根拠があるので、できるだけ覚えていただきたい。どうか安心を。何も丸暗記しろとは言わない。常に「覚え方、考え方」と絡めて用語を出すので、記憶についての負担は最小限となるはずだ。

 私が中学で最初に英語を習った先生の口癖が「英文法は心理学だと思って勉強しなさい」だった。なんとも漠然としたこの表現の意味を理解するまでに何年もかかったが、このたった一言を冒頭に与えられたことが、今思えば英語学習に正しいベクトルを与えられたのだと感じる。
 その先生は次のようにも述べていた。
 「どんな文法事項でも決して暗記しようとするな。そこには常に理由がある。その理由をさぐろうとしなさい。すぐにわからなくてもいい。でも、疑問を持ちつづけていれば、いつか納得できる日が来る。ルールに従って英語を使おうとするのではなく、自分の感性の中に英文法がしみつくようになることが大事だ。自分自身の中に英語ネイティブと同じ言語感性が徐々に築き上げられていけば、自分の思うがままに言葉を口にするだけで正しい英文となるのだ」と。

 悪い授業の典型として次のような言い方で英文法を指導する教員がいる。
---「これは関係代名詞だから、ここは『後ろから訳せ』」
 私の恩師がもっとも嫌っていた指導法だ。英語は言葉なので、本来の姿は音声である。すなわち相手が口にした順番にしかその言葉はこちらに聞こえてこない。ということは、聞こえてきた順番に理解し続けることで英語の意味が伝わってくるのである。なんとも当然のことではないか。
 「後ろから訳せ」とは、和訳した結果としての日本語ともとの英文を比較したとき、文字として現れてくる順序に違いがあるということであり、それは言語が違えば当たり前のこと。しかし、英語そのものの理解を後回しにして、「翻訳結果」に目を奪われていてはいつまでたっても英語でのコミュニケーション能力など身につくわけがないのだ。英語がしゃべれないものが文字化された英文だけを相手にしてパズルときのようなテクニックを駆使し「どう和訳すればいいか」など、どうでもいいことなのだ。

 英文法というものをそんな低級なパズル解きテクニックの手段にしてはならない。そんなことのために英文法が研究・整備されてきたのではないのだ。そこを履き違えて英語を学ぶ者が多い。そして指導するものまでが多くいるために、今日のような「学校英語に対する批判」が生まれてしまったのだと感じる。

 だがしかし、世に市販されているあらゆる英文法学習書のいずれを見ても「ルールの羅列」だけがそこにあり、「それをどう理解し、活用すればいいのか」という肝心の点が書かれていない。だから学習者も教員も誤解する。
 このサイトではその誤解をなんとかときたいと考え、くどいくらいに同じ説明を繰り返すこととなるだろう。そして読者がもっとも肝心のポイントに気づいたとき、そこから先は、もうこのサイトの解説は必要ないと思う。あとはどんな市販の英文法解説書でも「その読み方」が分かってしまえば、自分でどんどん学習を進めていけるはずだ。

 文法解説の情報量からいって、このサイトで提供できるものはたかが知れている。とてもすべてを網羅することは不可能であり、それは最初から狙っていない。だがきわめて基本となる文法事項について、どの本にも書かれていない、そしてもっとも重要な話をするつもりでいる。言い換えればこのサイトの最大の主眼は「学び方を学ぶ」ことだ。そして読者が「ああ、なるほど、英語ってそうやって勉強していけばいいのか」と気づいたら、あとは自由に身の回りを見渡して自分にあった教材へと移行していただきたい。そうなったとき、このサイトはもはや不要となり、戻ってきて何かを確認する必要さえなくなるだろう。それがもっとも私の望む結果である。




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013.たった1つの規則

 英語にルールなどないと言ったが、たった1つだけある。それは----
 相手が口にした順番にしか聞き手の耳にその言葉は入ってこず、そこに書かれている順番にしかその言葉は目に入ってこないということだ。これは自然科学的な法則である。これだけは覆せない。そりゃそうだろう。相手がまだ口にしてもいない言葉は決して聞こえてこないし、まだめくってもいないページの文字は目に入らないのだから。
 このあまりに当たり前の「法則」をしっかりと念頭に置いていただきたい。一切の文法事項の理解はここから始まるからだ。この当然すぎる前提をちゃんと踏まえて英語を学んでいるかどうかが、学校英語、受験英語と実用英語を「まったく同じもの」とできるかどうかの分岐点となる。

 つまり「学校英語が役に立たない」と愚痴を言う人たちは、そもそもこの「自然科学的事実」を無視して英語を学んでいるのである。万有引力の法則に逆らった設計をした飛行機は飛ばない。それだけのことなのだ。

 英語は日本語とは違う言語だ。これまた当たり前のことを言わなければならない。この先もたくさん当たり前のことを言うが、どうか流さずに読み進めていただきたい。なぜなら、多くの英語学習者がそういう「当たり前」のことをなおざりにしているからこそ英語が身につかないという現状があるからだ。
 英語は日本語の都合など一切考えずに使われている。和訳したらどうなるかなど英語話者の知るところではない。英語を学ぶ私たちは、「英語そのもの」をまず学ぶ必要があり、和訳した結果だけに心を奪われてはならない。

 誤解ないように言うが、私は決して英語ネイティブが赤ん坊のころから英語を習得するのと同じプロセスをたどることを勧めるものではない。それは無理なことだからだ。今あなたがまた本当に赤ん坊なら、それで英語は身につく。しかし、少なくとも、このサイトをこうして読んでいらっしゃる読者は日本語ネイティブであり、すでに母国語としての日本語が高いレベルで習得されている人に違いない。(ここまでの私の日本語が理解できていれば、そういうことになる)
 したがって、すでに日本語を母語として今日まで成長してきた人が、今から外国語としての英語を学ぶ場合、そのアプローチはネイティブが第1言語を習得するそれとは異なってくる。

 たまに「英語ネイティブは文法など考えていない。だからひたすら英語の中に身をおけば自然と英語が習得できる」という極論を言う人がいるが、それは事実ではない。わからない言葉の中に1年間どっぷり身をひたしても、相変わらず分からないままで終わる。英語圏に長く滞在することは英語学習にとっては確かに望ましい環境だ。しかし、それがしかるべき効果を発揮できるのは、それなりの基本をすでに身につけた人が、その環境の活用法を正しく理解している場合に限られる。




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014.英語を学ぶ目標・意義・目的

 英語を学習する目標は、言うまでもなく「英語の習得」だ。英語を習得するとは、

  1. 英語が話せる(Speaking)
  2. 英語が聞き取れる(Listening)
  3. 英語が読める(Reading)
  4. 英語が書ける(Writing)

 という4つの技能領域のすべてについてバランスよく能力を伸ばしていくことを指す。

 なんと、このどこにも「和訳できる」はない。考えてもみよう。英語ネイティブは基本的に日本語が分からないのだ。だから英語そのものを学習する「目標」には本来「和訳できる」は含まれていない。
 ではなぜ学校の授業で多くの場合、和訳が重んじられるのか?それは英文を生徒が理解したかどうかの確認手段として教員側が和訳結果に頼っているからである。それ自体は悪いことではないのだが、ひとつ間違えれば(事実ひとつもふたつも間違えられているのだが)、「和訳できたらそれでよし」と履き違えられてしまう。

 それでは英語学習において和訳は悪なのか?まったく必要ないものなのか?
 それもまた違うと思う。私たちは日本人なのだから、母国語である日本語と英語を比較していろいろ気づき理解することもあるし、英語という外国語を通じてはじめてより深く日本語を知ることだってある。
 つまり「英語を学ぶ目標」とはまた別に「英語を学ぶ意義」として付け加えられるものがあってよいと思うのである。

  1. 英語という外国語を他山の石として母国語である日本語を客観的に見つめなおす
  2. 英語、日本語それぞれの論理や表現方法を比較して、互いの文化を学ぶ
  3. 時に英文を「自然な日本語に直す」という作業を通じて日本語の表現力の向上にも寄与する。
  4. 翻訳や通訳といった実利的な業務に関する素養も培い、異文化間の橋渡しとして自らの存在価値を得る。

 他にもいろいろ考えられるだろうが、「英語学習の目標」と「意義」は、このようにたてわけて考えていくのがよいと思う。多くの人はすでにこの段階で目標と意義を混同しており、だから目標が達成されないという結果に陥っているのだ。

 加えて言うと「英語学習の目的」も、またこれらとは違ってくる。目的とは、その個人が「なぜ英語を学ぶのか」、「何のために英語を学ぶのか」である。これは人それぞれ違った目的を持っていることだろう。ある人は受験に合格するためだろうし、ある人は仕事のため、また趣味としてなど、千差万別の目的があってよい。目的まで1つにまとめる必要などさらさらないのだ。しかし、その人が持つ目的は実現されなければならない。どうしたら実現されるのか?答えは簡単。だれにでも共通である目標を達成すればいいのだ。目的は人それぞれだが、目標は同じなのだ。

 「目標、意義、目的」という3つの概念をよく理解し、たて分けることだ。ここをちゃんと踏まえているかどうかが極めて重要な出発点なのだ。そして個々人の目的がなんであれ、「共通の目標を達成できたときは、そのどの目的も実現される」ということを理解していただきたい。英語学習の目標は、あらゆる英語学習の目的にとっての必要条件であるということだ。

 なお「目的のない学習」は高い効果が期待できない。単に外国語の勉強が好きで趣味として取り組んでいるだけで楽しいという人はそれで結構。「趣味として楽しむ」ということだって立派な目的となりうるからだ。学習者が自らの意思・希望・願望により目指すものであればどんなことでも目的になれる。ただ1つ望ましくないのは「やりたくないけどやらなければならない」という種の目的である。
 「受験のため」というのがそれにあたることがままある。だからそういう消極的な目的を掲げて英語学習に取り組む人は高い効果が得られないことになりやすい。
 これはもう「英語学習」の話題からはずれてしまうかも知れないが、受験以外にこれといった英語学習の目的を見出せない人はまずそこを改善することから始めなければならないだろう。こういっては申し訳ないのだが「受験にさえ合格できれば、別に英語が話せなくてもいい」という感覚の学習者は、言うなれば「聞く耳持たない受講者」であり、このサイトで私がどんなに苦心して文法解説しても効果はないだろう。「(目先の試験で点数を取るために)やらなくていいことはできるだけ省き、どうしてもやらなければならないことだけをやりたい」という考えでいられると、すでに「本当にやらなければならないこと」が見えなくなっているのだ。私がいくら発音記号の習得を勧めても「発音記号を書けという試験問題はない」からという理由で勝手に学習方法をアレンジされてしまうことだろう。

 そのような発想から英語を学んでいる方については、どうか自らの人生全体を見渡す気持ちで「受験に合格する目的」から考え直していただきたい。人生におけるとき折々の「小さな目標」は、その向こう側にある大きな目的への一里塚であり、最終目標をしっかり抱えている人でなければここの小目標は実にむなしいものとなってしまう。そこまでこのサイトでお話しようとは思っていないので、それについてはご自身でよく考えていただくことにしよう。

 私がこのサイトの対象とするのは、

  1. 中学生などまったくの英語初学者
  2. 大学受験を目指す高校生
  3. 一通りの基本が身についた大学生でさらに深く学習したいと思う人
  4. 現役の英語教員で、より分かりやすい英語の授業を模索する人
  5. 社会人になってから実務上の必要性から英語を学ぼうとする人
  6. 趣味として英語を楽しみたい人

 のすべてである。こんなに多岐に渡る需要にこたえきれるのかと思われるかも知れないが、どうってことはない。英語は1つだ。やることも変わらないのである。私が念頭に置いている「学習の目標」の中に上記すべての要求が含まれている。
 中学生と大学生とでは、扱う英語のレベルに差があるのは確かだが、大学レベルの英語といえども、どこかでつまづいている人は中学生段階での基本中の基本に問題があるのだ。そこを解決できればあとは単語が難しくなっているだけの違い。

 とはいえ、このサイトの内容でところどころ中学生段階では難解に思われるところも出てくることだろう。あるいはまだ中学の段階では習わないことがらにも当然触れることになる。それは個人の判断で読み飛ばしていただいてもいいし、いつかは必要になるだろうと予習のつもりで読んでいただければなおよい。

 執筆者としてもっとも希望するのは、このサイトを冒頭から順番通りに通読していただくことである。どこかの文法事項だけを参照された場合でも、できるだけその項目で理解を完結させられるように努めて記述するつもりではあるが、文法学習の基本方針など特に冒頭で述べることがらについての了解が非常に重要であるため、できることなら最初からお読みいただきたい。せめて前書きだけを通読してから、特定の文法事項を参照していただければと思う次第である。

 それではいよいよ本論に入ることとするが、この先も随所でコラム的に余談を交えるつもりでいる。それは少しでも「学び方それ自体」をより深く理解していただくためであり、このサイトの最終目標である「学習者の自立」を実現したいと思うからである。

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お断り
  1. サイトの解説記述についてはできるだけ正確を期するように努力しますが、文法事項の「理由」に関する説明は多分に私の主観がまじることがあります。私自身が恩師から学んだことを皆様にもおすそわけしたいと考え、私が習ったことをそのまま解説しますので、その内容の真偽につきまいしては学習者の自己責任においてご判断ください
  2. このサイトは基本的にテキストベースで作成します。少しでも多くの情報を限られたディスクスペースにおいて提供するため、グラフィクスなどの余分な装飾によってメモリを浪費することを避けるとともにページ作成の時間の効率化を図ります。見かけ上、なんとも味気ないサイトになると思いますがご勘弁ください。
  3. このサイトで解説しきれないことがらについては、私が検索によって見つけた別サイトへのリンクの紹介などで補う予定ですが、他サイトとの関係は一切ありません。相互リンクなども張る予定はございませんが、このサイトへのリンクは自由に行っていただいて結構です。ご連絡の必要もありません。またこのサイトで紹介するリンク先について一切の責任は負いかねますのでご了承ください。(リンク切れなどがあった場合はご一報いただければ幸いです。)
  4. 発音についての解説で、「発音記号」を表示する必要がどうしてもあります。これについては大変悩みましたが、発音記号だけはJPEG画像を使用することにしました。特定のフォントを閲覧者がインストールしていただければもっと簡単に発音記号を表示させることも可能ですが、私自身がインストールしてみた限りでもかなりの手間であり、これを一般の閲覧者に強要することはさすがにためらわれました。 (その後画像を使わないで発音記号を表現する方法を知り、現在、差し替え作業を進めています)
  5. 画像など装飾的な要素はできる限り排除しますが、文法項目によってはイラストなどが理解を大いに助ける場合もありますし、HTMLの表現力では無理のある解説(文章の構造についてなど)ではJPEG画像などを用いることもあります。できるだけ軽いサイトになるよう配慮し、画像を多く含まざるを得ない項目については一定量に区切ってページを分けます。
  6. 本サイトの内容についてのご意見、あるいは誤字脱字、ミスタイプなどがありましたら、ご一報いただけると幸いです。極力速やかに対処させて頂きます。
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